水草の日記

にkkkkkkっき

普通に日記

昨日は5時くらいに寝て15時くらいに起きた。
最近、睡眠はほとんど寝落ちで、布団もろくに敷かず蛍光灯がぎらぎらついたまま寝ていたから、疲れもたまっていたのだろう。
普段に比べて明らかに疲れが取れていて、しっかり”寝た!”という実感があった。

その後、1か月程度の自堕落な生活でものが散乱しまくっていた部屋を掃除した。掃除をする前は本当に面倒くさくて、昨日から惰性で続けてきた生活のペースに戻りたくなった。しかし、昨日気まぐれで風呂に入り、気まぐれで歯を磨き、気まぐれで布団に寝たおかげもあって、いつもよりはやる気があった。
自分は、あの自堕落な生活が嫌で嫌で仕方がないのだが、どこかで甘えているのも確かである。ゆっくりとゆっくりと、だが確実に事態は悪くなっているのに、それから目を背け短絡的な生活をするのに慣れてしまっている。
まあ結局は気まぐれで、私は部屋を掃除した。

一度やると決断してしまったら、途中で投げ出すという選択肢を極力頭に思い浮かべないことが大切だ。
ある程度物事が完了すれば、気持ちも乗ってきて、むしろやり終えたほうが楽ということになるのだが、やり始めはそうはいかない。
しかしずっと、「やっぱりやめようかな、どうしようかな」と優柔不断でいるとそれだけで頭が疲れて、辛くなる。
めんどくさいことを実行する辛さより、ずっと頭の片隅で思案している辛さのほうが大きいとすら思う。
だから、一度やると決断したら、頭を空っぽにすべきだ。そして目の前の物事だけに集中する。これは意図的にでもやるべきだ。
そのためには、制限時間を設けたり、終わったら次にやることを決めたり、しっかりと順序を決めたり、頭の中の選択肢をはっきりとさせるなどが有効だ。
なかなか難しいのが現実だが。自分含め、多くの人はできないのではないだろうか。

その後、なんと学校の宿題を少しだけやった。頭をすっからかんにして。普段だと、学校の宿題をやってもいいかなと思ってもすぐに、死とか人生とかにまつわるネガティブな考えが湧いてきて、やめてしまう。このとき、頭の中はいつもぐちゃぐちゃだ。
世間的な私は、「生きる意味とか人生の勝ちとかはどうでもいい。そんなんじゃ社会のレールから外れるぞ」と言い、また違う私は、「いいや、そうやって思考停止で生きて、無計画にレールに乗っているほうが恐ろしい。多数派とは限らない。平凡な人生を送りたいのか?その調子じゃ、いつか無為に時間を過ごし没個性的な一人の男に成り下がっていることに満員電車に揺られながら気づくことになるだろう。ありえたかもしれない無数の可能性、今となってはありえないものとなってしまった無数の可能性に絶望するだろう。危険を冒してでも、意味のある人生を求めるべきではないのか?」と反論するのだ。
そんな具合のディベートが繰り広げられるから、頭はパンクする。もやもやして気持ち悪い。悩み続けるのがつらい。
たいがいは、その憂さ晴らしにYoutubeスマホゲームを起動する。楽しいだけのコンテンツに浸っている時間はその苦しみが多少和らぐのだ。
しかし、刹那的な快楽に逃げることは、間違っている。それはどこかでわかっていて、何とも言えない気持ち悪さが頭の片隅に居座るから、現実から逃げてまで手に入れた刹那的な快楽でさえ、満足に楽しめない。
結局、めんどくさいことを嫌々でもやってしまったほうが、最後にはすっきりするのは明白なのだが。やはりハードルはある。
今回は良いほうに流れることができてよかった。次うまくいくかはわからない。努力するつもりではいるが、弱い自分に負けないと、言い切れるほどの自信はない。

学校の宿題をやったのだが、あまりにも自分の思考力がなまっていて絶望した。それを理由に止めたくなったが、上記の考えを思い起こして、やりきればきっとすっきりすると言い聞かせて頑張った。