水草の日記

にkkkkkkっき

生きる意味を再考

某質問サイトに寄せられていた回答に勝手に反論してみる

①「働いたら…」理論
「…」には、「生きる意味なんて考えなくなる」「おのずとわかるから考える必要がない(今考えるだけ無駄)」などのパターンが入る。
後者に関しては、生きるという言葉の多義性にハマってしまっているように見える。
生きる=自分の力で金を稼ぎ自立して生活していく、という意味で捉えると、確かに働かない限りは生きる意味は分からないという言い分は正しいだろう。
しかし、一般に生きる意味を問うとき、生きる意味という語は「人生全体をどのように歩んでいくか」という意味で用いられる。
生きるという語の用法が違うのだ。
だから、後者の回答はまったくの見当はずれだと言える、と思う。
両者に共通して言えるのは、人生を「働く以前」と「働く以後」で二分していることだ。
しかし、質問者が求めているものは、先に述べたように、「人生全体をどのように歩んでいくか」という質問に対する回答であり、働く働かないによらない人生全体を貫くものである。
だから、この「働いたら…」理論で導かれる回答全体が、質問者の意図に沿わないものになっている可能性が高いだろう。

主観的な考えだが、この理論を提唱してくる人の心理というのは結局のところ、「これだから若いもんは社会を知らんな!」というヤツに集約されるのではないかと思っている。彼らは働いたことで本当に生きる意味を悟ったのだろうか。自分には単にマウントの材料にしているとしか思えないのだが。

②意味などない論
この手の内容以前にも書いたような気がする。まあいいや。
たいてい、「人間は単に生殖の結果生まれたに過ぎないから、そこに意味なんてない」「そこらへんのアリンコの人生(蟻生?)の意味なんて聞かれてもわからないのと同様に人間の人生の意味も分からん」とかを引き合いに出す。
まず後者について。
後者の言い分を支えている前提には、命の重さ、生きることの意味にはアリンコだろうが人間だろうが関係ないというのがある。
命の重さに大小なんてない―聞こえはいいが、本当だろうか。人間がアリンコの命より人間の命を優先してもそれはむしろ普通ではなかろうか。なので、アリンコの人生に我々人間が意味を感じ取れなかったとしても、それがすなわち人間の人生にも意味がないとはならないと思いまーす。
でまあ、前者は言ってること自体に間違いはないと思う。ただ、ここで否定しているのは、RPGの勇者に与えられるような生まれながらに持っている意味だけだ。いわば宿命。なので、別に僕らが勝手に、俺の人生の意味はこれだあああと宣言する自由までは否定していない。
そんなわけなんで、宿命を望んでた人は残念ですが、それ以外の大多数の人はこれから意味を探していこう派だと思うのでたいして影響がない。

主観的な考えだが、この理論を提唱してくる人の心理というのは結局のところ、キレイゴトというか科学的であるとか、「俺は俯瞰的に冷静沈着に物事を見ているんだぜ」と言いたいだけなんじゃなかろうか。だって、意味などないって言われても、これっぽっちも心の支えにも問題の解決にもならないから。それに、きっと誰しも生きる意味を持っている(意識していようとなかろうと)だろうから、なんだかんだ言ってこいつらも内心では大切に思っているものがあるはずや。

③結局自分の幸せのため
それはそう。幸せとは何かという深淵にぶち当たる。

あーめんどくなってきたぜえ