水草の日記

にkkkkkkっき

最近思ったこと詰め合わせ

1,楽な芸術について。
音楽と映画はファンや通を自称する人が、読書や数学に比べて多い気がする。その一因として、音楽も映画も、受動的にしているだけでインプットできることが挙げられると思う。いや、正確にはインプットではない。音楽はヘッドホンを付けてボーっとしているだけで、映画は2時間スクリーンの前に座っているだけで、「俺はあの曲を聞いた」「私はあの映画を見た」という権利が手に入るのだから。簡単にインプットした気になれるという方が実情に合っている。
自分はインプットした気になっているだけだと自覚しているのなら問題ない。100時間ヘッドホンを付けていただけなのに、1000時間映画館の椅子に座っていただけなのに、自分がちょっとした専門家になったと勘違いしてしまうことが問題なのだ。
大学生になって、高校生のうちは全然そんなことはなかったのに、音楽の道に進みたいとか、役者になりたいとか突然言い出す奴がいる。そういう奴らは一度、確認してみるべきだろう。その自信の根拠はどこにあるのか、ということを。
2,数学書を読むスピードについて。
数学書を読むスピードは人によってかなり違うらしい。自分は1冊に半年から1年はかかるから、わりと長いほうだと思う。それゆえ、1か月くらいで読める人を羨んだこともある。もちろん、頭のスペックの違いというのはあるだろう。だが、もう一つ、大きな要因がある気が、最近している。
それは、証明や命題のアイディアのぼんやりとした輪郭が本を読む前にできているか否か、である。俺なんかは、ほとんどの命題や定理の価値を読んですぐ把握することができない。なんども証明を読み直して、いくつも具体例を考えて、ようやく少しわかってくる、気がする。
だが、ある人は、命題を読むと直ちにその価値が分かるのかもしれない。証明を読むと直ちに何をやろうとしているのか分かるのかもしれない。そういう人は、だいたい、どういうことが成り立つのか、読む前からぼんやりとわかっているのだろう。勘が良いのかもしれない。そして、そういう人が、数学書を1か月で読みこなすのだろうと思う。
そういう、アイディアの輪郭を把握しているかどうかは、頭のスペックのほかに、普段からどれだけ数学に親しんでいるのかもかかわるだろう。教科書を開いていない時、電車に乗っている時、夜布団に入っている時、いつ何時だろうとぼんやりと数学のことを考えている、という人は、厳密な証明にたどり着くとまではいかなくても、ざっくりとした方針が分かっていて、だから、読むのが早いのかもしれない。
まぁ、実際のところは分からない。が、少なくとも、そう考えると数学書を読むのが遅い僕のささやかな慰めにはなってくれるし、僕はそれで十分だと思っている。
3,大学について。
大学の制度というのは、自分のような少数の落ちこぼれに対して、相当冷たくできているように思う。ちゃんとレールに乗れている人に関しては、かなり努力が評価されるようになっているのに、自分みたいに休学・留年していると、その間にしている努力は一切評価されない。それどころか、休学・留年しているというだけで、一切の努力を放棄した怠け者とみなされる。それが納得いかない。制度というか、偏見というか分からないが、現状そういうふうになっている。
もちろん、僕の努力を余すところなく評価して欲しいなんて思っていない。そんなことは不可能だ。だが、正規の生徒は、レポートは短いより長いのが評価されるんだろうし、授業も欠席するより出席する方が評価されるだろう。それは、努力を評価しているわけだろう。僕みたいなハズレものも、少しはその物差しで評価してくれたっていいじゃないか。問答無用で0点を押されるのだ、今の大学では。

俺は物理学科に進むのだろう。大学に入学した時点では、だいたいの学部に進めるくらいの点数を取って、そのうえで悩むつもりだった。
だが、そんな贅沢ができるほど俺は頭もよくないし、自制もできない。結局、物理学科か、数学科のどちらかだろうな。
なりゆきで決めた感がぬぐい切れないが、仕方がない。いまからやり直すこともできない。
学科を選ぶうえでの最近の悩みは、数学がにわかに面白くなってきたことだ。
特に代数学などの、基礎というべきか根本というべきか、そういう分野が面白い。純粋に知りたいという動機で勉強しているのは初めてかもしれない。
しかし、物理をサブにして数学をメインにやるようになったら、それはそれで大変そうだ。第一、自分の数学的能力では数学を専攻してもせいぜい数学教師くらいにしかなれそうにない。また、数学の根本的な知識は、もしかすると物理に輸入できるかもしれない。逆は難しいだろう。

エレキギター買おうかな
アコギより魅力を感じてきた

走ってるとメリット多い。たった15分程度の努力で、眠りも良くなるし、体力つくし、前向きになる。ほかにもあるだろう。
まあ走ってるときはメリット云々考えずに体を動かす爽快感を味わうのが一番だが。

30歳になったときになにも専門知識がなかったら嫌なので頑張ります。

大向こうをうならせることを考えたりしない限り、人間は技術を伸ばすことそのものに喜びを見いだせる。
期待値が高すぎる。ただし、低すぎるのもよろしくない。
才能があろうがなかろうがやりたいと思えるものをやるべきだ。
ハードルはいくら下げてもいいから、やらないよりはまし。

このまま何も成し遂げられないまま死ぬのだろうか。
人間が為しうるどんな事業も歴史的なスケール、宇宙的なスケールから見ると些細な出来事に過ぎないのだと
自分を諭してみてもこの思いが消えることはなかった。

目を覚ました

やはり、他人など信用ならない。


今後のことを話そうとしても、全然耳を貸さないじゃないか。自説の1点張りをするだけで、俺の意見に対して反応するなどはない。
その結果、きっと今頃は、ただ単に俺の機嫌が悪かったんだと解釈している。自分と同じように、すべての人が短絡的に動いていると思っているから。

他人を信用して、仲良くしたりうまくやろうとしたりするのはやはり間違いだった。
俺はもともと他人を信用したりはしなかったはずだ。しかし、半年間ほぼ完全な孤独の中生活したためか、楽観的な説明スタイルを身に着けようとしたためか、他人の温もりを恋しいと思ってしまった。誰かに本当に理解されるという想像上の幸せを、あさましくも望んでしまった。
それに、将来に対する不安、また、人間の生からは切り離すことのできない様々な不安から目を背けていた。楽観的な説明スタイルを身に着けたら、少しは生きやすくなるだろうという計算はあってのことだし、その方が生活がうまく回っていたのは確かだ。
しかしどちらも現実を正しくとらえてはいないのだろう。やはり、他人は信用ならない。将来の不安、人生の不安は消えることはない。
うつ病の人のほうが現実を正しく認識しているという研究もある。健常な人、つまり大多数の人は、自分に都合のいい解釈をするのだろう。
彼らのほうが過度に楽観的だというのに、相対的な問題で、現実を正しく認識している者が病気とされている。
他人は信用ならない。誰かに理解される喜びなんて存在しない。儚いものだ、人間というのは。

なんか気味悪いよな。20年間不要だったものがいきなり必要になるわけないだろ。
大人になったつもりなのかな?日々の渇きを癒せるとでも思っているのかな?
バカな奴はまだしも、学校のお勉強はできる人たちも分からないみたいだね。
僕は彼らを尻目に、少しだけ前に進もうと思います。
別に俺は特別じゃない。ただ、少し変わっているみたいだ。それゆえの孤独もあるが、仕方ないだろう。
自分はそんな思慮分別を欠いた行為、絶対にしない。