水草の日記

にkkkkkkっき

再帰について考えたこと

時間の環に閉じ込められると人はだれでも廃人になってしまうんだろう。
それは繰り返し単位の大きさによらない。繰り返していると認識してしまえば、いずれ廃人になる。
やり直しがあると思えば、倫理観や価値観が荒廃する。感情がなくなる。
僕は、人生を繰り返しているひとを知らない。誰かの生まれ変わりを自称するひとも、ちょっとしたフェイクニュースくらいにしか思っていない。
最初は楽しいかもしれない。法律や道徳、宗教観というやつが卑小に見えるだろう。やがてどんな価値基準もつまらなくなるに違いない。
やりなおせば全部がまっさらになる。そこにどんな価値が見いだせるだろう。この思考実験からわかるのは、良くも悪くも、積み重ねが価値の原動力だということだ。
自分としても、このところ、毎日ほとんど繰り返しの日々を送っていた。日数だけが無機質に増えていくだけ。プラス1になんの意味も考えてなかった。
しかし、現実は時間の環ではない。そこに希望がある。明日、いや、今この瞬間にでも、僕はいままでやったことがないことに取り組める。
人間には現状維持したい欲求があるから、本能的な、若干の抵抗感はある。しかし、それはさしたる問題ではない。その可能性に意味がある、というか、意味を見いだせるのだ。年老いるという弊害はあるが、環の中で精神が廃れていくより、現実にはよっぽど価値があると思う。
日々の勉強はまるで同じことの繰り返しに思えてくるかもしれない。ルーティンワークだってある。が、少しずつ変化しているだろう。ないというのなら、それを見逃しているに過ぎない。そのかすかな変化を生み出し、実感できれば、なんとすばらしいことか。一日として同じ日は存在しない。