水草の日記

にkkkkkkっき

思考の止め方

将来への不安が漠然と広がっている。
しかし、そんなことに頭を働かせることはほとんど意味がない。そうだろう。
こうやって文章を打っている最中はわずかに考えてしまうが、これもまたよくない。
なぜこの結論に至ったのか。それは知らん。首尾よくすべての人をうなずかせられるだけの答えを僕は持っていない。
結局は自分の主観的事実に過ぎない。しかし、たとえ主観的事実に過ぎないにしても、僕にとっては価値のある結論なのだ。
後で見返したときに、どう思うのだろうか。そういうことも考えてしまうから、思考を止めるのは恐怖である。
だが、今までの数か月間俺が触っていたのは、原理的に解けないパズルなのだ。唯一解はないし、思い通りに事が進むとも思えない。
二次的なカオスなのである。
パズルの答えはわからない。ただ、パズルの性質は少しはっきりした。このパズル、すなわち将来への不安に、触っている時間はそれだけ無駄な時間なのだ。
自分が将来歩むべき道をはっきりと示してくれる魔法の杖があったなら。将来への不安とは、そういうありもしない甘ったれた願望が形を変えただけのものに過ぎない。現実的ではない。しかし、この魔法の杖には底抜けの魅力があって、正常な判断力を鈍らせる。
確かに、魔法の杖は現実的ではないかもしれない。でも、でももし、そういう答えがあったら、人生に立ち込める暗雲はたちまちに晴れ上がって、一発逆転、胸を張って生きていけるはずなのだ。もう、答えのすぐそばまで来ているかもしれない。ここで辞めたら今までの時間は何になる?もう少し考えてみよう、と終わりのないループに引きずりこまれてしまう。
これは、ギャンブルに依存する心理によく似ている。同類の問題なのだ。
おおよそ、人生には一発逆転なんてものはない。仮に、一発逆転のように見える現象があったとしても、見えないところにからくりがある。あいつ、急に頭良くなったよな、そんなとき、だいたいは「あいつ」が勉強をコツコツ頑張っただけ。からくりが見えないところにいるものからすれば、奇跡が起こったようにも見えるだろう。全知全能ではない僕たちが、見えない、聞こえない、知りえないところで静かに回っている歯車がある。それだけにすぎない。概して、他人の努力は目に見えない。
夢のような魔法の杖は存在しない。魔法の杖は、まるで自分が存在するかのように錯覚させ、僕たちをループに閉じ込める。魔法の杖かどうかを判別する方法は、それが一発逆転の方法であるか否かを自問すればよい。ただし、ここでも魔法の杖の魅力に取りつかれたものならば、正常な判断ができない可能性があるので注意。魔法の杖だとわかったら、もう望むことはやめよう。思考を止めよう。それ以上つぎ込むのはギャンブルと大差ないのだから。
そして、純粋な気持ちで向かい合う勉強というものは、案外見えなかった面白さに気づいたりする。