水草の日記

にkkkkkkっき

俺は弱い人間だ。だけど、それを言い訳に使ってはいけない。弱いから少しでも強くなれるように気を付けるべきだ。
まず、ちょっと調子がいいだけで強くなった気になるあたりすでに弱い。去年の惨状を思い出せ。あれが俺の弱さだ。
自分以外の同期はみな自分よりうまく生きていたんだろう。想像に難くない。
彼みたいに達観できない。世間にもまれると葛藤が生じる。この葛藤は消えないだろう。誰しも何かしらに葛藤しながら生きていくんだ。
平凡で弱い人間でも、せめて自分に少しでも居心地がいい場所で生きていけるように、少しでも居心地がいい世界をつくれるように努力する。

多くの人が、平凡な人生の渇きを潤そうとしてつまらない失敗している。平凡でもありがたいのだ。運命の不意打ちに遭っていないだけ幸運だ。

ダサいなあ。結局は短絡的に生きているんだなあという感想。口だけだったようだね。もしくは、嫌いになった人の言説もろとも嫌いになってしまう性質の人かな?自分の場合は絶対にやらない。一瞬の好奇心を満たすために残りの全生涯で我慢しなければいけないものを増やすなどバカげている。それに、自分の場合、親を見本とすればいい結果にならないことは明らかだ。これ以上我慢しなければいけないことはいらない。それに加えて、彼と一緒になるのもいやだ。いや、彼らというべきか。自分はまずありえないが、改めて意志を確認したかった。所詮薬物だ。

最近、昼間は図書館で勉強している。もっぱら物理と数学をやっている。
毎日8時間くらい勉強できたら、「自分は毎日頑張っている」と胸を張って言えるが、自分にはそれほどの根気も情熱もないらしい。
自分の物理への情熱はせいぜい、ほどほど、なのだろう。平均すると毎日4~5時間も勉強すると飽きてしまう。
もっとできる日もあれば、ほとんどやらない日もある。
バイトもサークルもやっていないため自由に使える時間はたっぷりあるというのに、それを十分に生かしきれていないという情けなさ、行き場のない罪悪感を時折感じる。
しかし、精神的に具合が悪くならないよう、なるべく深く考えないようにしている。それに対する罪悪感もあるが。
朝はだいたい同じくらいの時間に起きれているし、夜もだいたい同じくらいの時間に寝れている。
睡眠時間も取れている。食事は朝、夕の二回だけとっているが、昼飯を抜いている分たくさん食べているので無理をしているというわけではない。野菜は高かったり、料理が面倒だったり、何かと理由をつけて食べるのがおろそかになりがちだが、それでも意識的に食べるようにはしている。
数日に一度は大学構内を走っている。一回十数分ほど。運動不足の解消には十分とは言えない量だが、運動が苦手な自分にしてはよくやれているほうだと思う。
風呂上りには柔軟体操をする。最近は億劫がってしまっているが、少し体が柔らかくなったのを感じる。
夕食時から風呂に入るまでの時間は、だいたいYoutubeを観て過ごす。正直Youtubeには毎日数時間を費やせるほどの面白い動画はないと思うが、つい癖で観てしまう。この時間をもっと有効に活用すべきではないかとはだいぶ前から思っているが、今のところ癖は治せていない。
こんなもんだ。俺の生活というのは。
なぜ突然つまらないことを書こうと思い立ったかというと、自分の生活は自分が思っている以上に幸せなのではないかと思ってそれを確認したかったからだ。
自分は生活に不満ばかり抱いていた。丸一日誰とも話さない日がしばしばあるくらい孤独で寂しいこと、勉強に打ち込めないこと、Youtubeを余計に見てしまうこと、自分が同世代の人に比べて様々な点で後れを取っているのではないかということ…列挙すればキリがない。
だがそれらは、幸福の裏返しなのではないかと思った。言ってみれば、どの悩みも些事だ。孤独が何だ、集中力に欠くのが何だ。
どれも俺の命を奪ったりはしない。
むしろ、これだけ自由に使える時間があって、飯が食えて、勉強できる環境がある。それらがどれだけありがたいことか。
自分がこうして退屈すぎるほど平穏な暮らしを送れているのは、きっと当たり前じゃないだろう。
だから俺はやはり物理を勉強しようと思う。学問を極めようとか、そういう熱意があるわけではないが、今学ぶことをやめたらきっと後悔する。後悔の種をひとつひとつ潰していこう。たとえ、望んだものが得られなくても、とことんやりぬいた先に得られる諦めは、きっと穏やかなものだろうから。

20210501

7:30ごろに起きて、朝食を食べたが、寝転がっているうちに気づいたら寝ていて、結局12:00だった。
サークルのことで悩んだり等いろいろやっているうちに13:30になり、そこから図書館に行き、16:30まで勉強した。
短い時間だった割には内容は進んだ。最近は格好とかおかしくないか変に気にするが、いつもだいたい特に何もせず出かけて、特に何もないからその時間はもったいない。
たまにはいいだろうと、スイッチでモンハンをやったら深夜になってしまい、後悔。きっと12:00頃まで寝るだろう。
今日はギターをほとんどひかなかった。ひくとやはり楽しいが、最近はどことなく時間がもったいない気がしてしまう。

人生はマルコフ過程だと思って生きようとするのだが、その理念をしばしば忘れてしまう。最大値には行けないかもしれないが、極大値には向かっていける方法である。
人生計画を立てると、人生を減点方式でしか見れなくなる。計画を立てるのは物事を効率よく進めるうえで大いにメリットがあるが、必ずしもすべてのことで計画を立てればよいとは思えない。

つまらない人生

こんなこと言うと、自分の中の善人が、この世の中には生きるのでさえ精いっぱいの人がいるのにお前はなんて貪欲なんだと叱りつけてくる。
たしかに今の俺は少なくとも飢えて死にそうにはなっていないし、重い病気を抱えているわけでもない。しかし、それがわかっていても、この胸のモヤモヤが晴れるわけではない。もし俺が彼らの立場だったら、今の俺みたいな人を見たら怒りがこみあげてくるのかもしれない。しかし、だからと言って、この胸のモヤモヤが晴れるわけではない。
俺だって俺なりに必死なんだよ、と言ってみる。自分で言っておいて、都合のいい言葉だとつくづく思う。寝る時間も起きる時間も自由で、親の金で十分な飯を食え、なにかやらなければならない仕事もない人間が、「必死」だと?そう、自分でさえ思う。でも、本当に苦しいことには間違いはないのだ。
だからこの気持ちはきっと誰もわかってくれない。人はみな、外面だけで人の内面までも判断できると思っている。
もほや学生とは名ばかりのニートだな。例えば、平日5日働いて、休日2日休養を取るような、ごく普通の労働をしている人から見れば、ニートは週7日休日がある人のように見えるだろう。そしてその人は考える。
「あいつは働く苦労もないし、俺が週2日しか許されていない自由時間が7日もあるのだ。さぞかし、悩みもなくて気が楽なんだろうなあ。」と。
でも、事態はそう簡単ではない。他人の気持ちを知るには他人の立場にならなければいけないからだ。
ニートには平日、休日の概念がない。だから、平日の疲れをいやすとか、自由に使える時間を堪能するとかの普通に働いている人が休日に抱く魅力を、ニートはほとんど味わっていない。語弊を恐れずに言うと、平日があるからこそ休日のありがたみがわかるというわけだ。
これは別にニートが甘ったれた性格だからというわけではない。つまり、人間は何事にも慣れる生き物だからだ。

人生辛い

今日一日何をしていただろうか。コーヒーを一杯飲んだな。朝にコーンフレーク、昼にメロンパン、夜にカレーを食べた。
あとは…?なんだかんだ言ってネットサーフィンとかしてたのかな。でも、Vの配信も通しで見たものは一つもない。
ギターは結構長く弾いた気がするが、せいぜい2時間だろうな。
となると、他の時間は集中せずに特に何もしないでいたんだろうな。
なさけない。

人生が悪い方向に進んで歯止めが効かない。
いつからだろうか。大学を決めたときにすでに悪い種はまかれていたが、実際に悪い方向に進み始めたのはあいつと仲たがいを起こしたときくらいだろうか。まあそんなことはどうでもいいか。

一年前の俺が今の俺を見たらどう思うだろうか。情けなすぎて、消えたくなる。時間だけを浪費して。一年は決して短い時間ではない。
俺を陥れたやつ、自覚の有無を問わずみんな仲良く死ねばいい。

こうやって、言葉を積み重ねたところで、何にもならないことはわかってる。今までもそうだったから。

雑感

この気持ちは何なんだろう。
現実と理想との乖離という単純な構図でまとめてしまっていいものだろうか。
ただ、この問題を抱えてから、ほとんど何の進展もなく半年ほど経過してしまったという事実を情けなく思う点に関しては一貫している。
理想と言っても、その理想に無我夢中になれないのは単に自分の熱量が足りないというだけではないだろう。
むしろ、自分は一度方向が決まって、迷いが断ち切れさえすれば全速力で走れる自信がある。以前そうだったように。(今文章を書いていて、なんだ、これじゃあいつも本気出す本気出すと言いながら、永遠にその時が来ない人みたいじゃないかと情けなく思ったが、とりあえずこの気持ちは置いておこう。)
ではなぜか。おそらく、理想に疑いが生じていることが原因だ。
高校時代、化学に無我夢中になれたのは、それが最善の道だと、たとえそれが無知ゆえの盲目によるものだったとしても、信じることができたからだ。
心の底から信じてた。7時限の授業が終わった後でさえ3、4時間勉強することができた。苦しくても続けられたのはそれが正しい道だと信じてたからだ。
今の俺にはそれができない。生きていてよかったと思えるような勝利も、悔しさに涙を流すような敗北さえできない。