水草の日記

にkkkkkkっき

日記

昨日はなんだか何もかもがどうでもよくなり、ギター上達したいとか勉強して知識を身につけたいとかそういう向上心がばかばかしくなって、特に何をするわけでもなく、Youtubeを巡回するわけでもなく、寝っ転がって時間をつぶしていたら、寝るのが2時ごろになってしまった。午前8時ごろにアマゾンの配達が来たので、目が覚めたが、二度寝し結局起きたのは午後一時だった。
今日は、ちょっと計画的に過ごしてみようと思って午後五時までにその日の勉強を切り上げ、午後12時までにギターを切り上げ、午前2時ごろを目安に寝ようとざっくりと計画を立てた。

この計画は少し変わった方式を取っていて、勉強は午後五時に切り上げそれ以降は一切考えないことにはするものの、別に午後五時までみっちりと勉強することを義務付けたわけではなかった。そうしてしまうと、集中力が持たない。結局総崩れになってしまうのがオチだろうと思ったからだ。
ただ、終了時間を決めていることで、何もしないよりはメリハリがつくし、切り上げた以降、頭の中から一つ選択肢が減るのですっきりする。自分は何をしようか考えているうちに疲れて、なんとなくYoutubeの動画の巡回をしてしまうということが多い。だから、行動の選択肢を絞れるというのは非常に大きい。

その結果、緩く休憩もはさみながら2,3時間勉強することができた。あまり集中してなかったから、質は悪いと思うが、普段の自分から比べたら相当な進歩である。その後、午後五時の期限にこだわる理由もないので、午後四時くらいから飯を作った。その後はYoutubeの巡回をした。しかし、勉強を済ませた後なので、後ろめたさはそれほどなかった。そして、午後9時頃からギターを一時間くらい練習して、今になんとなくの思い付きで日記を書いている。

少し思ったのが、俺がたまに何もかもどうにでもよくなる原因の一つにスマホがあるのではないか。最近は、ありとあらゆることの原因をスマホに擦り付ける風潮が若干あると思うが、別にそういうわけではない。薬物中毒に陥った人は、薬のこと以外を考えられなくなると、学校の薬物乱用防止教室なんかで聞いた覚えがある。スマホもそれに似ていて、少なからず依存性があるものだから、スマホを使用した結果他のことへの関心がなくなってしまうのも無理がない話ではなかろうか。最近は、日中スマホになるべく触らないようにトイレに置いているのだが以前より日ごろの活動に活力を感じる。
スマホで遊ぶのは楽しい。依存性があるほどだ。だが、ここ最近の無力感、脱力感、虚無感がその楽しさの代償なのだとしたら、スマホで遊ぶのは良い選択肢とは思えない。少なからず、俺はスマホに依存する味を知ってしまった。一度薬物中毒になった人が再犯を繰り返しやすいように、一度スマホ中毒になってしまえばスマホの魅力に抗うのには苦痛が伴うだろう。しかし、それを嘆いてもしょうがない。もともとは自分が蒔いた種だ。
そう考えてみると、日ごろ感じる無力感とかは、気持ちの問題が大きいのかもしれない。
ついつい壮大なスケールの話に逃げて言い訳したくなっているだけなのかもしれない。スマホで遊ぶために。
「人間はだれしも最後は死んで骨になる。だったら楽しく生きたほうが徳じゃないか。」
「この広い地球、宇宙のスケールから見れば人間なんてミジンコ以下だ。だったら俺が頑張ろうとその結果はたかが知れてる。」
こんな感じのもっともらしい理由はいくらでも持ち出せるのだ。いかにも深淵を見据えているような理屈だが、その結果がネットサーフィンときては情けない。目的論で考える目を持たなければ。
スマホを使うのも、休憩とか娯楽とかいう理由じゃないとだめだ。広いスケールで考えたら無常観に至ったのでネットサーフィンします、では依存だ。
自分をだましてはいけない。

無題

現実を見るだけ。自分を取り巻く、自分に付随している問題だけを見る。世界の貧困だとか、ありふれたストーリーとかはどうでもいい。
夢の世界を見ないと言い換えてもいい。ブログもそう。これは自分の現実的な生活の何の足しにも変化にもならない。
ツイッターも、Youtubeも、2chも。見なくていい。世界のどこかで誰かが偉業を成し遂げたことや、スキャンダルを晒したことは見なくてもいい。
見るべきは、今俺がたいして快適でもない狭いワンルームに閉じこもりがちになっていて、日がな悪い姿勢でいるから首が痛いってことだ。世の中にはもっと不幸な人がいるとか、視野を広く持つ必要もない。あと見るべきは、スーパーの買い出しとか、いろいろ面倒な雑務とかだ。遠い将来の心配もいらない。明日、いや次の瞬間どうするかに落とし込まなければ意味がない。
夢に描いたような理想の生活は、実際にやってみれば現実との齟齬に気づくだろう。世界が苦しみで満ちていようが、喜びで満ちていようが、この狭い部屋の自分が頭を悩ます必要があるだろうか?そういうスケールのでかい話が、今後自分の身の上にかかわらないとは言い切れない。だが、その可能性は低いし。仮にかかわることがあったとしても、その時は”より具体的な形に化けて”降りかかってくる。
とどのつまり、世界が苦しみで満ちているとかそういうのは、一種の解釈、表現であって、事実ではない。失業率は年々上昇しています、貧富の差は年々悪化しています、戦争は相変わらずなくなりません、みたいなことから帰納的に総評しているに過ぎない。これらが全くの無駄とまでは言わないが、悪く言えば所詮言葉遊びだ。
だから、自分が向き合うのは”世界の苦しみ”ではなく、失業率の低下や貧富の差、戦争という事実ということになるが、これらでさえまだ不十分かもしれない。本当に自分に降りかかってくるとすれば、”どこにも内定しないこと”とか、”働けど給料が上がらないこと”とか、”ある日空から爆弾が降ってくること”とかだ。ほら、これら三つ、今の自分にかかわりがあると思うだろうか。取り巻いているか、付随しているか。少なくとも、対処できない不安は考えるだけ損だ。

日記

昨日、いつも通りの昼夜逆転サイクルで昼間に寝落ち。
結構がっつり寝て(10時間くらい)、起きたのは21時ごろ。このまま徹夜して、明日、すなわち今日の夜まで眠気を我慢して、生活習慣を見直そうと決めた。
夜中、1時間に満たないくらいの時間、ちょっとずつ化学の教科書を読む。が、ほとんどの時間はやはりYoutubeに費やしてしまった。
昼までなんとか粘ったが、14時ごろに寝落ちしてしまう。しかし、およそ一時間後の15時あたりで、母親が突然の訪問。昼寝程度で済んだ。
一瞬勉強しようかとも思ったが、やはり、Youtubeの巡回を始めてしまう。気づけば、21時ごろ。迷ったが、何とか風呂に入り、皿を洗い、ごみを出し、今、日記を書いている。

反省
まず、昼夜逆転サイクルが最大の問題。歯を磨いたり、風呂に入ったりすることを億劫がってやらないのはそれに付随している問題。

人間は必ず死ぬ。努力は必ず報われるとは限らない。
ホントウの価値を探すんだ。名声とか、権力とか、財産とかは全部見せかけじゃないか。
それを証明しろなんて言うのは野暮な話だ。そう言いたくなるときは、決まって何かから逃げたい時だ。
ホントウの価値と向き合うのは、きっと辛いことだろう。でも、確かに存在する。
日本住血吸虫の根絶に人生をささげた医師たちの話を見た。彼らの名はあまり知られていない。彼らは志半ばで亡くなっており、悲願が果たされる瞬間を見ていない。彼らは私財を投げうったので、決して裕福ではなかった。しかし、彼らの人生の、そのホントウの価値はそれらのことで霞みはしない。彼らの努力によって救われた人がいるということ、これに私は感銘を受けた。ここにはホントウの価値がある、と思った。
”ホントウ”だなんて定義のあいまいな言葉で誤魔化すな、なんて言わないでほしい。きっとみんな分かっている。真正面から向き合うと怖気づいてしまうから、目を背けているだけだ。直視するのが怖いんだ。誰もが怖くて怖くて仕方ない。だが、繰り返し言う、確かにみんな分かっているんだ。
自分の心に聞いてみるんだ。「それは”ホントウ”か?」と。有名になりたいという人がいるとする。権力が欲しいという人がいるとする。大金持ちになりたいという人がいるとする。そういう人たちは、自分の心に問いかけるんだ。「それがホントウにやりたいことなのか?命を燃やしてでもやり遂げたいのか?」と。何度も何度も問うんだ。心の隅っこに追いやって、ずっと知らんぷりをしてきた小さなの葛藤、モヤモヤが浮き彫りになってくる。それを見逃してはいけない。
自分が、ホントウに価値があると思うことをやろう。口先だけじゃなく。命を燃やすんだ、死ぬその瞬間まで。
しかし、ホントウの価値に向き合うことは、辛い。真剣であればあるほど、現実の残酷さが見えてくるからだ。でも、現実の残酷さから目を背けていては、結局何も変わらない。現実の残酷さを、オブラートに包まず、希望的観測もせず、そのままのグロテスクを受け容れるんだ。
普遍的なことで言えば、人間は必ず死ぬ。努力は必ず報われるとは限らない。死ぬときに後悔しない人生を歩める保証はない。リスクはゼロにはできない。命を燃やして、死力を尽くしたとしても成功するとは限らない。結局すべてが無駄だったと思う可能性も否定できない。才能の優劣もある。過去は変えられない。どうしようもない無力感にさいなまれる夜もある。これらはすべて真実だ。当たり前のことを言ったに過ぎないと思う人もいるだろう。
しかし、だからといって、自己憐憫に走り悲劇のヒロインを気取るのは止めるべきだ。なぜなら、これらは全人類共通だからだ。これは全人類が平等だというと誤解が生じるだろう。貧富の差や生まれた環境による差はおそらく存在する。ゼロとは言えない。そうではなく、人類が不平等なこの世界という環境が全人類共通なのだ。もっと軽い表現で、主人公補正というのものが存在しないと言い換えてもいい。これは、歴史上の偉人でさえそうなのだ。
さて、現実がいかに残酷かわきまえたとしよう。問題はここでどうするかだ。
さあどうする?しり込みして、再び目を閉じようか、それとも、相変わらず定義が不明瞭な”ホントウ”にそれでも命を燃やすか。それは自由だ。完全に自由だ。
この無慈悲なまでの選択の自由もまた、現実の持つ性質の一つであり、残酷さである。
ここで後者を選択する者は、おそらく不安ではなく、むしろ闘志が、心の底からわきだしてくるのを感じるのではないか。
現実という避けようのない苦難のなかでそれに屈することなく歩いていくのは、まるで雨風に吹かれながらも倒れず立ち続ける樹木のような、どっしりとした勇敢さを感じさせる。
余談だが、これはフランクルのロゴテラピーに似た考え方があり、人間は苦難に対して表明する態度によって価値を感じるらしい。何かを創造したり、体験したり、はたまた名声、財産、権力を手に入れなくても、価値を感じることができるというのだ。別に高尚な理論を引き合いに出して、話に箔をつけようと思っているわけではない。何度も言うが、やはり、選択は自由なのである。ここで、ロゴテラピーの理論に説得されたから現実の残酷さに相対することを選んだと、もっともらしい理由をつけてはいけない。まるで前者の選択肢は取ろうにも取れなかった、みたいに思ってはいけない。それは現実の残酷さから目を背けているに過ぎない。非合理な選択肢だろうが人間は実行できるのだから。
コップに水が半分入っています。”まだ半分ある”と思うか、”もう半分しかない”と思うか。”もうない”と言って諦めるのか、”まだある”といって残された可能性に賭けるのか。それも自由なのだ。”ホントウ”の価値を追い求めることは辛いから、やめても構わないのだ。誰も文句は言うまい。見せかけの幸福でも、目を閉じ耳を塞いでいればいくらかはホントウだと錯覚できるかもしれない。天使と悪魔、どちらの言葉も言うことができる。いや、きっと天使も悪魔もいない。A案とB案があるだけだ。どちらかの選択肢が優れているなんてことはないはずだから。
すくなくとも、今これを書いている自分は命を燃やして熱を放出しながら生きていこうと思っている。が、それはあくまで今の話。これを読み返して、どちらかを選択するかは完全なる自由なのだ。次の瞬間決断を切り替えてもいい。そこに”義務”はない。

おしまい

この文章は、「何者にもなれない病」に苦しんできた自分が、今後なるべくこの「何者にもなれない病」をこじらせることなく生きていけるようにまとめられたものである。今までも、似たような体裁の文章は幾度となく書いてきた。しかし、今までのものは、「何者にもなれない病」の熱に浮かされて書いたもので、きざな詩的表現をして悦に入ったり、自分の(ありもしない)文才を自画自賛するというのが裏の目的としてあった。自分の鬱積した感情を、感傷的に吐き出すことに意味があると思い込んでいた。
だが、今回は違う(そうしたいと思っている)。結論から言うと、今回の文章では「何者にもなれない病」に対する最良の薬は「考えないこと」だということを主張したい。しかし、この答えはどうも煮え切らない。それゆえに、もっと良い対策法があるのではと何時間も何日も考えたり、「何者にもなれない病」のドツボにハマって苦しむということになりがちだ。なので、将来自分が「何者にもなれない病」を再発したとき、「考えないこと」が最良の方法だ、と言ってもそれだけでは耳を貸さない可能性が非常に高い。そこでわざわざ長い文章をこしらえて説得するのである。

なぜこんな文章を書こうと思ったか。それはYoutubeでとある動画を発見したことによる。URLを貼っておく。概要は30代無職のおじさんが「何者にもなれない病」で年月を無駄にしたことを悔やむという十数分の動画である。自分はこの動画がとても他人事には思えなかった。なぜなら、自分自身「何者にもなれない病」に侵されている自覚があったからだ。
動画にもあるように、「何者にもなれない病」を発症すると、世界で自分だけが苦しんでいると思い込んだり、無駄な努力をして何も進歩していないくせに前進している気にはなったりといった症状が出る。これらの症状のせいで、人一倍(勝手に)苦しむくせに成果は出さず、無駄に時間だけを浪費するということになる。しかし当人はその自覚がない。だから永遠に抜け出せないループにハマる。
「何者にもなれない病」患者だと、上記のメカニズムは理解できるのだが、どうも自分はそのメカニズムから除外してしまうようだ。無駄に苦しんでいるのはいつか報われると思い込む(腹の底ではかすかな違和感や劣等感を抱えながら)。

以下では自分が「何者にもなれない病」をこじらせて、主に大学に入学してからやってきた数々の過ちを見ていこう。
・何者かになりたくてYoutubeを始める。かといって、本気で成功するために努力するわけでもなく、つまらない需要皆無な動画を4か月程度に渡って挙げ続ける。kouichitvなどのようにナゾなジャンルとして運よく当たってくれないかと願うだけ。もちろん空振り。これだけではまだよかったが、動画撮影を言い訳にして学業を怠る。心理的には、秦の目標は学業をさぼることで、Youtube投稿は隠れ蓑だったのだろう。
・生きる意味が分からない→勉強する意味が分からないというのを理由にして、本格的に学業を怠り始める。本人は人生規模の大問題に取り組んでいるつもりなので、大学の課題という「小さな問題」は後回しにしてよいという言い訳。実際には一日のほとんどをYoutubeやネットサーフィンに費やし、夜が更けてから少し考えるだけ(実際には考えるというよりただただ落ち込んでいるに過ぎない)。
・何者かになれないと意味がないという思考回路なので、勉強するにつけても一流のエンジニアだとか天才科学者だとかになれないかぎりは意味がないと思い込んでしまう。そのため、自分に課すハードルが異様に高く、勝手にキャパオーバーになり破綻、あああ俺はやっぱり天才じゃないんだと落ち込む。H岡さんやG空を引き合いに出してさらに落ち込む(天才になるには彼らと同等、もしくはそれ以上にならなければいけないという理屈)。また、難しい箇所に差し掛かると、あああ天才だったらまごまごすることなく一瞬で理解できるんだろうなあ、こんなところで詰まる自分は天才ではないんだあああと思って粘り強く考えることも放棄し始める。シンプルについていけなくなる。その結果どんどん勉強自体嫌いになってしまう。
youtubeやネットサーフィンに明け暮れる日々を送りながらも、そんな体たらくな日々の延長線上に自分が望む「何者か」があるわけではないということはわかるので、焦って、なにか新しいことを始めようとし始める。しかし、いままで自分が最も順当に歩んできたと言っても過言ではない学問の道は辛いので避け、ギターを買ったり、小説を書こうとしたり、作曲家になろうと音楽理論をかじったり、またもやYoutubeに動画投稿しようかと画策したり、下手な詩を書いたり、ゲームを作ろうとしたり、プログラミングをしようとしたり、と迷走し始める。どの道も「何者か」になるのだとしたら険しい道のりに違いないのに、勉強で挫折したのと同じ要領で、辛くなると諦めてしまって中途半端に終わる。
・突然我に返っては「何者にもなれない病」で生活が荒廃していることに気づき、生活をリセットしようとして、一人で勝手に反省文をしたためたり、自己啓発本を読み漁ったりし始める。これらは「何者にもなれない病」の一般的な症状で、努力しているふりをしているに過ぎない。つらくないことにエネルギーを割いて、本当にやらなくちゃいけない大学の課題は先延ばしにしてしまう。また、こうしたときに生きる意味だとか人生の価値だとか壮大なテーマに悩みだす(これも結局は大学の課題を先延ばしにする言い訳に過ぎなかったのだろう)。

ざっと書いた。現状、自分は2か月弱大学の課題を一切やっていない。自分の怠惰が原因で留年するかもしれない。一時は本当に心が病んでカウンセラーに相談しに行った(目的論的に言えば、それも甘えだったのかもしれないが)。それほどにまで「何者にもなれない病」は恐ろしいのだ。それが伝わってほしい。今、「自分は生きる意味という重大な問題に取り組んでいるんだ」とか「自分探しをしているんだ」とか言うのであれば問うてほしい。本当に「それ」に全力投球しているのか?本当に一日中やっているのか?はっきりとYesと言えないのならば、多かれ少なかれそれは甘えるための口実だろう。どのみち全力投球しない限りは「何者か」になんてなれやしない。
「何者にもなれない病」患者は努力しない。一見努力してるかのように見える行動をすることはあっても、辛いことは避けている。「何者にもなれない」と嘆きながら結局は逃げている。
「何者にもなれない病」から脱却したところで「何者か」になれるわけではない。ただ、一人で勝手に苦しむことはなくなるだろう。もっと現実的な問題で苦しむことはあっても。
さあ、頼むから同じ過ちを繰り返すのはもうやめてくれ。完璧にできなくても、「何者か」になれなくてもいいから、せめて現実的な問題で苦しむんだ。

普通に日記

昨日は5時くらいに寝て15時くらいに起きた。
最近、睡眠はほとんど寝落ちで、布団もろくに敷かず蛍光灯がぎらぎらついたまま寝ていたから、疲れもたまっていたのだろう。
普段に比べて明らかに疲れが取れていて、しっかり”寝た!”という実感があった。

その後、1か月程度の自堕落な生活でものが散乱しまくっていた部屋を掃除した。掃除をする前は本当に面倒くさくて、昨日から惰性で続けてきた生活のペースに戻りたくなった。しかし、昨日気まぐれで風呂に入り、気まぐれで歯を磨き、気まぐれで布団に寝たおかげもあって、いつもよりはやる気があった。
自分は、あの自堕落な生活が嫌で嫌で仕方がないのだが、どこかで甘えているのも確かである。ゆっくりとゆっくりと、だが確実に事態は悪くなっているのに、それから目を背け短絡的な生活をするのに慣れてしまっている。
まあ結局は気まぐれで、私は部屋を掃除した。

一度やると決断してしまったら、途中で投げ出すという選択肢を極力頭に思い浮かべないことが大切だ。
ある程度物事が完了すれば、気持ちも乗ってきて、むしろやり終えたほうが楽ということになるのだが、やり始めはそうはいかない。
しかしずっと、「やっぱりやめようかな、どうしようかな」と優柔不断でいるとそれだけで頭が疲れて、辛くなる。
めんどくさいことを実行する辛さより、ずっと頭の片隅で思案している辛さのほうが大きいとすら思う。
だから、一度やると決断したら、頭を空っぽにすべきだ。そして目の前の物事だけに集中する。これは意図的にでもやるべきだ。
そのためには、制限時間を設けたり、終わったら次にやることを決めたり、しっかりと順序を決めたり、頭の中の選択肢をはっきりとさせるなどが有効だ。
なかなか難しいのが現実だが。自分含め、多くの人はできないのではないだろうか。

その後、なんと学校の宿題を少しだけやった。頭をすっからかんにして。普段だと、学校の宿題をやってもいいかなと思ってもすぐに、死とか人生とかにまつわるネガティブな考えが湧いてきて、やめてしまう。このとき、頭の中はいつもぐちゃぐちゃだ。
世間的な私は、「生きる意味とか人生の勝ちとかはどうでもいい。そんなんじゃ社会のレールから外れるぞ」と言い、また違う私は、「いいや、そうやって思考停止で生きて、無計画にレールに乗っているほうが恐ろしい。多数派とは限らない。平凡な人生を送りたいのか?その調子じゃ、いつか無為に時間を過ごし没個性的な一人の男に成り下がっていることに満員電車に揺られながら気づくことになるだろう。ありえたかもしれない無数の可能性、今となってはありえないものとなってしまった無数の可能性に絶望するだろう。危険を冒してでも、意味のある人生を求めるべきではないのか?」と反論するのだ。
そんな具合のディベートが繰り広げられるから、頭はパンクする。もやもやして気持ち悪い。悩み続けるのがつらい。
たいがいは、その憂さ晴らしにYoutubeスマホゲームを起動する。楽しいだけのコンテンツに浸っている時間はその苦しみが多少和らぐのだ。
しかし、刹那的な快楽に逃げることは、間違っている。それはどこかでわかっていて、何とも言えない気持ち悪さが頭の片隅に居座るから、現実から逃げてまで手に入れた刹那的な快楽でさえ、満足に楽しめない。
結局、めんどくさいことを嫌々でもやってしまったほうが、最後にはすっきりするのは明白なのだが。やはりハードルはある。
今回は良いほうに流れることができてよかった。次うまくいくかはわからない。努力するつもりではいるが、弱い自分に負けないと、言い切れるほどの自信はない。

学校の宿題をやったのだが、あまりにも自分の思考力がなまっていて絶望した。それを理由に止めたくなったが、上記の考えを思い起こして、やりきればきっとすっきりすると言い聞かせて頑張った。